原水爆禁止世界大会・広島大会
8月4日~6日までの日程で開催された「被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会」に参加しました。広島や岡山などで集中豪雨による災害が発生し、復旧作業があるなか、全国から2200人が結集しました。
4日、連帯フェスタの教育部のブースでみんなに折っていただいた千羽鶴を平和公園の原爆の子の像前に納め、慰霊を行いました。
そして、全国各地を回った「非核平和行進」の締めくくりとして「折り鶴平和行進」に参加しました。炎天下のなか、平和公園原爆資料館前に集まった参加者は、横断幕やのぼり旗を手に、「核兵器禁止条約を批准せよ!」「原発再稼働を許さない!」「全てのヒバクシャの権利拡大を!」などとシュプレヒコールを繰り返しながら、広島大会の会場まで行進し、開会総会に出席しました。
総会は、原爆犠牲者と先日襲来した西日本豪雨の犠牲者への黙祷で開始。主催者、来賓の挨拶の後、13歳の時に爆心地から800メートルの地点で被爆。証言活動を行ってきた桑原千代子さん(広島県被爆者団体協議会)から、被爆者の訴えがありました。桑原さんは、「多くの犠牲者の上にある平和を大切に、証言活動を続けていく」と力強く語られました。
■核も戦争もない国へ。若者が声を上げよう■
5日は、分科会として2つの講演に参加。笑いを取り入れて原爆の恐ろしさを語る落語や講談を聞き、被爆した方々の生の声を聞きました。
6日8時15分、広島市に原爆が投下されて73年、奇しくも同じ月曜日だったそうです。戦争を経験した方々が年々少なくなっているなか、原水禁大会のメインスローガンでもある「核も戦争もない平和な21世紀に」「くり返すな核被害、目指そう核兵器廃絶と脱原発社会」の声を私たちがつなげていかなければならないと強く感じました。
< 通信 / A執行委員 >
1945年8月6日に広島市、9日に長崎市にアメリカが原爆を投下、そして1954年には、広島原爆の約1000倍もの爆発力を持つ水爆実験をビキニ環礁で行い、マーシャル諸島の人々や日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員など多くの人々が被爆。その体験が原水禁運動のはじまりです。
【 くさり9月号より 】